暮らしの視座 その2

障害者殺害事件

上野昻志


 「ついに、ここまで来たか!」というのが、相模原の障害者施設「津久井やまゆり園」で、元職員が、19人を刺殺したというニュースの第一報を耳にしたときの思いでした。あまりにも怖ろしく、おぞましい事件で、しばし呆然としてしまいました。
そのなかで、「ついにここまで」という思いがアタマをかすめたのですが、それを噛み砕くと、最低限のモラルの底すらも、ついに破られることになったのか、ということでもあります。

 

 はっきり申しましょう。これを障害者に対するテロルです。
これまでも、無差別な殺傷事件というのは、ありました。記憶に新しいところでは、秋葉原の事件があります。あれも、なにも知らずに秋葉原の街を歩いていた人たちが、不意に襲われ、何人もの方が殺され傷つけられました。しかし、今度の事件とあの事件とでは、性格が違います。秋葉原の事件の犯人は、殺害する相手は誰でもよかった、自分の心中にわだかまる殺意を発散することだけが目的だったのです。
それに対して、今度の相模原の殺人は、明確に障害者を対象にしています。障害者は役に立たない、生きている価値はない、生きているだけで人の重荷になる・・・だから、殺してやる、と。

 

 事件のあと、犯人像について、いろいろなことが言われています。大麻やその他の薬物を常用していたとか、知人に、障害者は始末すべきだと言って反対されると、いきなり切れて相手を罵倒したとか、さらには精神に異常をきたしていたとか。それらは、いずれも、植松聖という犯人が、いかに普通の青年と違うかということを、彼の性格や生活習慣の側から説明しようとするものです。だから、いずれ彼に対する精神鑑定が行われるのでしょうが、その結果は、植松聖は、異常者だったというイメージに行き着くことになるでしょう。

 

 それが、この社会では一番受け容れられやすい答えなのです。異常な事件を起こした一人の異常者、ということになれば、わたしたちは、安心して眠りに就くことができるからです。ですが、わたしは、そのようには考えません。確かに植松聖には、性格的にも心理的にも異常な部分があったのだろうとは思います。しかし、彼が、障害者は役に立たない、生きている価値はない、と考えるに到った源には、現代社会の価値観が大きく作用しているからです。

 

 役に立つか立たないか、効果があるかないか、得か損か・・・現代社会でもっとも力を持っているのは、このような思考の物差しです。しばらく前には、「使える奴」とか「使えない奴」という言い方が流行りました。会社などで、誰かを評価するとき、「ああ、あいつは使えない奴だよ」などと言われていたのです。その根本にあるのは、有用か無用かという尺度です。このような物差しが、わたしのなかにもあることを否定できません。効果や効率が第一の世の中なのですから、それをまったく無視して生活していくことはできないからです。

 

 犯人の植松聖は、そのような価値観に骨がらみ犯された青年だったと思います。彼が人を見る尺度は、それしかなかった。障害者は役立たず、だから生きている価値はない、世の中がうまく回転するためには、抹殺したほうがいい、ということです。彼がたまたま働いていたのが障害者施設だったから、障害者を殺害したのですが、これが老人ホームであったら、自分の身の始末もできない老人は役立たずだから、殺してしまえとなり、保育園だったら、役に立たない赤ん坊など殺してしまえ、となったかもしれません。

 

 日本には、いまのところ移民がいませんから、ヨーロッパのネオ・ナチのように移民をターゲットにしたテロルは起こらないでいますが、その代わりに、植松青年のように、身近な存在をターゲットにするテロルが起こったといえましょう。そして、実は、わたしが危惧しているのは、この日本にも、実行はしなくても、彼のような考えに共感する連中が、少なからずいるのではないかということです。障害者をはじめとする弱者に向かって、心中、役立たずは死ね、と思っている連中が。
このような思考を改めさせるためには、天賦人権説のようなモラルを説いても、あまり力にはならないでしょう。それよりも、現代的な価値観そのものを転倒させる道筋を考える必要があるのではないでしょうか。