SIZA

暮らしの視座 その5

「ウソは罪・・・」

上野昻志


 

ウソは罪というジャズのスタンダードナンバーがあるんです。
そう、「It’s a sin to tell a lie」というラブソングの名曲で、いろんな歌手が歌っています。
でも、たぶん、トランプさんは聞いたことがないんでしょうな。でなきゃ、あれほど平気で口から出まかせのウソをつくはずはない。いや、彼の場合は、自分が口にするのは、ウソと思っていないかもしれませんね。なにしろ、メディアが、事実は彼の言うのとは違う、これが事実だと示しても、そんなのは「フェイク・ニュース」だと切り捨てて平然としているのですから。

さすが、USAファースト(こんな英語アリですか? 日本では似たようなのがありますが)の大統領だけのことはあります。これに負けないのは、実際の国力は別にして、北朝鮮の、ユニークなヘアスタイルの首領様ぐらいではないでしょうか? こちらは対外的な力は別にして、国内的には、首領様の言うこと成すこと、すべて真実以外の何物でもないという次第で、ウソの入り込む余地はありません。そんな巨大なフィクションが現実と化したところでは、王様は裸だ、と叫んだ子どもは、童話の国とは違って、ただちに死刑になります。

と、よその国のことをあげつらっている、お前さんのところはどうなんだ、と、天の声が囁きます。
ハイ、わたしなどが幼い頃は、ちょっと都合の悪いことを誤魔化したときなどに、“ウソは泥棒の始まりよ”なんて、母親に叱られたものです。でも、その一方で、訳知り顔の大人から、“ウソも方便”なんて諺を教えられたりして・・・どうも、正否をはっきりさせるよりは、ちょっとぼやかしておくほうが、双方の摩擦が少なくてすむ、という一種の曖昧化が、わが邦では暮らしの知恵として流通していたようで。

むろん、それはそれで、必要な場合もあったと思います。たとえば、重篤な病気を患っている人に向かって、あなたはもうダメですよ、とはなかなか言えない。いや、この前見た時より、だいぶ具合が良さそうじゃない、なんて、つい言ってしまう。それがウソだとしても、一概には咎められないでしょう。
とはいっても、それはあくまでも、苦しんでいる相手を少しでも安心させるというような、ごく限られた場合によることであって、いつでも、何処でも通用することではないはずです。そうでなければ、やはり、ウソは泥棒の始まり、と心得るべきではないでしょうか。

実際、オレオレ詐欺などは、まさに舌先三寸、ウソで相手を丸め込んでお金を騙し取っています。これが流行りはじめたとき、わたしは、携帯電話やスマホの普及によって、詐欺も随分お手軽になったものだと思いました。だって、そうでしょう、昔の詐欺師というのは、ほとんどの場合、相手と対面したうえで騙していたのですから。騙す相手に向き合うということは、自分の顔から身なり、装う身分まで、すべて相手の前に晒すというリスクを負っていたのです。それには相当の熟練した技が必要なはずです。
ところが、オレオレ詐欺の場合は、そんなリスクはありません。喋り方に、若干の技術を要するとしても、基本的に自分は相手の手が届かない安全な場所にいるのですから、失敗しても捕まる恐れはありません。相手を変え、やり直せばいいだけです。そして、それだけに罪の意識も生じないですみます。罪の意識どころか、簡単に騙される奴がバカなんだぐらいに思っているかもしれません。だから、あれだけ問題になっても、いまだに跡を絶たないのです。

トランプさんの国や首領様の国で、オレオレ詐欺のようなものが横行しているかどうかは知りません。ですが、わが邦では、あれが流行り出した頃から、ウソということに対する罪の感覚が薄れていったような気がいたします。“ウソは泥棒の始まり”よりも、 “ウソも方便”のほうが大手を振ってまかり通っているのではないでしょうか? それも、向き合う相手への思いやりからなどではなく、たんに自分たちの利害を守るために。
一方が、具体的な証拠を挙げて、いついつこういうことがあったと言っているのに対して、言われた方は、証拠もなしに、そんなことはないと平然と嘯き(嘘吹き!)、それが通用しなくなると、今度は、記憶にございませんと、記憶喪失を演じる。それも集団で。こういう光景が、いまでは、国家の最高機関である国会でも日常化しているのではないでしょうか?

これでは、ウソは罪、なんて通用するはずもありません。もっとも、『菊と刀』のルース・ベネディクトなどに言わせれば、日本は、「恥の文化」だから、キリスト教的な神を前提にした西欧と異なり、「罪」の意識が生まれにくいのも当然ということになるかもしれません。いまでは、ベネディクトの「罪の文化」「恥の文化」という二分法は、大ざっぱ過ぎると批判されていますが、こうしてみると、思い当たることも少なくありません。ですが、かりに、この国に「恥の文化」なるものがあったとして、ウソをつくことは恥ずかしいことだ、という意識はあるのでしょうか?
どうも、その「恥ずかしい」という感覚も、最近はすっかり薄れているように思います。ウソをついても、自信たっぷりに断言した言葉を、翌日には平然と翻しても、少しも恥ずかしいとは思わない。いわば「無恥」ですが、そういう態度が大手を振ってまかり通ってしまう。

怖いのは、そんな光景にウンザリして、見たくも聞きたくもないから目や耳を塞いでやり過ごすのに慣れてしまうことではないでしょうか。そのほうが確かに今日一日は平和に暮らせるでしょうが、その結果、明日はもっと酷いことになっているかもしれないのですから。ウソは罪であり、恥でもあることを肝に銘じましょう。

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