暮らしの視座 その3
スマホ依存症
上野昻志
スマートフォン、略してスマホ。これについて明確な定義はないようですが、2008年にアップル社のiPhone3Gが発売されて爆発的に売れ、各社が競って出すようになったといいいますから、一般に普及するようになって10年も経っていないのです。にもかかわらず・・・
電車の中をご覧なさい。乗客の9割は、スマホの画面に目を凝らしているではないですか。残り1割のうち、本を読んでいる人がチラホラ、居眠りしているのか、目を瞑っている人がチラホラ、新聞を読んでいる人は? いません。いまでは、これが当たり前の風景になりました。
もちろん、道を歩きながらスマホを見ている人など珍しくもありません。なかには、片手でスマホを操作しながら自転車を走らせてくる人がいて、危なっかしいったらありません。携帯電話が普及しだしたとき、車を運転中の通話は禁止とか言われていましたが、どうなんでしょう? スマホを操作しながら車を走らせたりしたら、それこそ、携帯電話よりなお危険ですからね。
最近になってようやく、駅のスピーカーなどから、スマホを使いながらホームを歩くのは、線路内に転落したり、人とぶつかったりして危険ですからおやめ下さい、というような注意が流れるようになりましたが、そこまで言われないと止めなくなるほどスマホ依存症は進んでしまったのですね。ま、わたしなどのような臍曲がりは、スマホの画面に目を奪われてホームから転落しても、自業自得じゃないか、と思いますが。
とはいえ、スマートフォンが、手で持ち歩けるパソコンとして画期的な道具であることは、否定できません。ゲーム・アプリは別にしても、天気予報から、大ざっぱなニュース、道案内と、どこでも簡単に知ることができる有用な道具であることは確かです。外国での使用状況は知りませんが、日本で、これほどまでに行き渡ったのは、満員の通勤電車のお陰ではないか、と思ったりもしています。新聞はおろか、本を読むのも難しいくらい混んだ電車という環境にあっては、片手に収まるスマホほどピッタリなものはないからです。
ですが、それが、一歩引いてみれば依存症ともいえるような状態になったら、ことは便利とか有用といったレベルを遥かに超えてしまいます。
スマホに目を奪われながら歩いてきて、こちらにぶつかりそうになって慌てて向きを変える人などに直面すると(しょっちゅうあります!)、危険とかなんとかという以上に、その人の目もアタマも、スマホの画面に展開する世界に引き込まれてしまって、外側の世界にはいささかも関心が向かなくなっているように思われるからです。この人の世界は、自分とスマホを介した電脳界だけになっているのではないかと。そこでは、もともとの「自分」を成り立たせている自身の身体さえも置き去りにされているのではないかと。
しばらく前に、家に閉じこもってスマホを弄るのではなく、外に出ることを促すとして、「ポケモンGO」というのが開発されました。そのとたん、街のあちこちに出没するポケモンを追って、スマホ片手に歩き回る人がどっと出ました。この「ポケモンGO」のお陰で、スマホの画面だけでなく、外の世界に目を向けるようになったのでしょうか?
結果は、NOだったと思われます。というのも、夏の終わり頃でしたか、新聞に掲載された一葉の興味深い写真を見たからです。それは、読者が投稿したものですが、その人もその日、日比谷公園にポケモンが出没するという情報を得て、ポケモン捜しに日比谷公園に行ったそうです。ですが、歩いているうちに、一本の木の幹で蝉が羽化するのを見つけて、美しいと思って写真を撮ったというのです。その写真の手前には、確かに、羽化する蝉の姿が写っているのですが、その向こうには、ベンチに座る大勢の人たちの姿も見えています。その人たちは、何をしていたと思いますか? 全員、そう、ただ一人の例外もなくスマホの画面に見入っていたのです。そして、写真を撮った人は、羽化する蝉を撮ってから、スマホはしまって帰路についたということでした。
ポケモンGO捜しは、外の世界に目を向ける結果にはならなかったのです。外を見ているつもりで、見ているのはスマホを通してのバーチャルな世界に過ぎなかったのです。あるいは、バーチャルな世界と現実の世界の区別を見失わせるという、より酷い結果をもたらしたのかもしれません。
わたしが、スマホ依存症の行き着く先として危惧するのは、そのような現実の外部世界に対する身体的な現実感覚の喪失という事態なのです。それが、電脳世界に遅れてきた年寄りの杞憂に過ぎなければよいのですが。